2008年06月07日
亀岡街道
『大阪と京都の亀岡を結ぶ街道が亀岡街道と称されるなったのは 明治の中頃である
当時は 高麗橋東詰から 天神橋 天神橋筋 長柄 中津川に架かる豊崎橋 柴島 菅原を経て亀岡に至る大道で 北摂丹波の薪炭や寒天 農産物の市内への搬出などに利用された
この付近一帯は古くから水上交通が盛んであった地と考えられ
ここから東へ約八〇〇メートルのところで 約一六〇〇年前の木製の「くり舟」が発見されている』
昭和63年に大阪市が建てた となっている案内板には、こう記されている
さて、文中の「中津川に架かる豊崎橋」とはどこを指すのか
他の地名は現在も存在するので、場所が特定できるが、「中津川」と「豊崎橋」は見当たらない
経路上から推測すると、現在の長柄橋になるが…
淀川(毛馬より下流)は、そもそも現在の大川にあたり、大改修により明治42年より、現在の位置になったのだが、
こちらの案内板の地図をよくみると、現在の位置近くにあった川が中津川になっている
ということは、
「中津川」は、明治42年まで存在していた川になるが、
「豊崎橋」は、はたして痕跡が残っているのだろうか
by hiro-project
Posted by 中津ブロガーズ at 20:12
│街かどの風景
この記事へのコメント
新淀川開削後の中津川は、新淀川左岸の長柄運河のことです。 こちらに詳しいです↓。 http://www.water.go.jp/kansai/nakatsu/history/index.html 豊崎橋は旧中津川の起点から少し下ったところにありました。現在の長柄橋よりも、淀川大堰に近いところです。 旧中津川には能勢街道が渡る新橋という橋がありました。こちらは新淀川には復活せず、かわりに渡し舟が渡っていたそうです。 こちらに詳しいです↓。 http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-62.html 以前、明治18年の地図に現在の川筋を重ねた地図を作ったことがあります↓。 http://matsuyakilintei.osakazine.net/e66487.html この時の作業ファイルが残っているので、近いうちにアレンジし直して中津に上げます。 |
Posted by きりん at 2008年06月07日 22:45
そうですね~ 中津川は、明治時代後半に出来た今の新淀川ですね。 この時代よりもっと昔の江戸時代。 堺へ付け替え工事をした大和川は、中津川のような元となる川がない状態で、全面開削工事でわずか8ヶ月で開通しました。 その結果、わいの住む東大阪市(当時は河内の国)に流れる元の旧大和川は運河が出来たから水害が少ないであろうと埋めすぎてしまい、またもや水害が起こってしまうようになったという事がありました。 その為に、別で中央部に流れる運河を開削して水害を起こりにくくしたようです。 これが、第二寝屋川です。 新淀川のように、スムーズに成功していないんですね~ なんでも、失敗を繰り返しながら成功を得ていくものなんですね。。 |
Posted by きのっぴ☆ at 2008年06月11日 17:59
きりんさん きのっぴ☆さん 詳しい解説をありがとうございます 大和川も 近年なにわ大放水路が完成したので 水害の被害は減少するようですね 願ってはないけど、 ちゃんと機能してくれるといいですね |
Posted by hiro-project at 2008年06月14日 20:38